熊野別当の話


そもそもは本宮、新宮、那智はバラバラに成立した神社であって
それが三山として一体化すること史料的に確認されるのは11世紀頃のことらしい。

そして現地で熊野三山をまとめる総括的な地位として
熊野別当(くまのべっとう)と呼ばれる役職が生まれた。

代々世襲の地位とされ熊野別当家は
院政の黄金期だった白河上皇や貴族らの熊野参詣が盛んになり出すと
「御師」(宿舎や警備等を差配する者)を務めることで
上皇・貴族らと結びつきを強め、
寄進を受けて熊野方面一帯を領主として支配するようになった。

kumano10.jpg

グーグルマップで見るとわかりやすいが
熊野方面と言ってもとても広大な領域であり、
本宮大社への玄関口にあたる紀伊田辺と新宮や那智とでは
紀伊半島の山地によって遠く隔てられている。

そこで熊野別当も新宮別当家と田辺別当家に別れることになり、
やがて中央の政治的争いと呼応するように両家も対立するようになる。

平清盛が政権を掌握することになる平治の乱(1160)が起こった際、
熊野詣の真っ最中だった清盛に京でのクーデター発生を知らせたのが熊野別当・湛快であり
田辺別当家も平清盛と結びついていた。


他方、新宮別当家は源氏と姻戚関係にあって、
平家の全盛期にも関わらず、
後に”以仁王の令旨”を全国の源氏に伝達することになる源行家を匿っていた。
(※新宮行家。頼朝の叔父にあたる)

そしてついに新宮の不穏な空気を察知した田辺別当の湛増は
本宮・田辺勢を率いて新宮に攻め寄せるも敗退。
『平家物語』では源平合戦の第1ラウンドが
この熊野における田辺別当家と新宮別当家の武力衝突とされている。

やがて、熊野別当として最も知られているこの湛増も源氏方に鞍替えし、
熊野水軍を率いて壇ノ浦の平家滅亡に寄与した話は有名だ。

しかし後に、熊野参詣28回を誇る後鳥羽上皇が承久の乱(1221)を起こした際、
田辺別当家は上皇方に加担したことから鎌倉幕府による攻撃・弾圧を受けることになり、
これを機に上皇による熊野参詣もほぼ途絶えることになってしまったことから
平安末期より100年あまりに渡る熊野別当権力は衰退へと向かったのでした。

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Author:E
数年勤めた会社を辞めて、某資格受験生活に入るも挫折したまま三十路をいくつか超えた無職。いい加減何とかしたいが、まだ何とかなると余裕があったりで、資格の勉強+ケータイ無しの直感のみでせどりする日々。あくまで、息抜き・趣味・リハビリとしてのセドリなので、売上はショボいです。

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