その男、弥助

「東方見聞録」を著したマルコ=ポーロも遠いから行ったことがなかった国、日本。
もし仮にマルコ=ポーロが来日していれば、
日本の歴史上初めての西欧のいわゆる”白人”との接触だったことになる。
(※ペルシア人なら古く奈良時代の記録に登場しているけれど)

歴史的に確かめられる形で日本が初めて白人と接触することになるのは
1543年種子島への鉄砲伝来の際のポルトガル商人や
1549年にフランシスコ・ザビエルらキリスト教のイエズス会宣教師たちが来航してから。

実はこの事件は西欧白人のみならず、
日本の歴史上初めてのアフリカ黒人との接触にもなった。


弥助”Yasuke

織田信長の家来にそう呼ばれた男がいたが
彼は正真正銘のアフリカ黒人だった。

『家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様[13]御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈された黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている[14]。


元はスペイン・ポルトガルの宣教師が従者として連れていた黒人奴隷だったのを
信長が気に入って譲ってもらったという。

スペイン人宣教師に地動説を教えられてすんなり理解したと言われるほど
常識にとらわれない態度と頭の良さを兼ね備えた信長ではあったが
生まれて初めて目にした黒人というものが信じられず、
色が落ちるに違いないと思って体を洗わせたという微笑ましいエピソードがある。

確かに信長は珍しい献上品を次々に受け入れはしたけど
何でもかんでも欲しがるタイプでもない。
例えばスペイン人宣教師たちから精巧な時計を献上されるも断っている。
理由は故障した際に修理する技術が日本にないからだという。

だから黒人奴隷を譲り受けたというのも身体の強靭さだけではなく、
その利発さをも感じ取ったからだろう。

明智光秀による本能寺の変(1582)の際も
信長の息子・信忠の傍で明智勢を相手に奮闘する弥助の姿があった。

江戸時代に入ると幕府は鎖国体制に入り、
南蛮船の渡航が禁止され、貿易相手も西欧圏はオランダのみ、
しかも長崎・出島に限定され、オランダ人との接触も厳しく禁じられることになり、
もちろんアフリカ黒人との接触の記録もほぼ絶えてしまった。
(※徳川光圀(黄門様)が黒人を家来として雇ったという話はあるらしいが)


ルーツを辿れば中国・朝鮮・アイヌ、東南アジアに辿り着く人も相当いるだろうけど
日本人は右を見ても左を見ても、人種的にはほぼモンゴロイド(黄色人種)に収まってきた。

弥助の記録が日本の歴史上いかに大きな意味を持つか
わかっていただけたであろうか?



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Author:E
数年勤めた会社を辞めて、某資格受験生活に入るも挫折したまま三十路をいくつか超えた無職。いい加減何とかしたいが、まだ何とかなると余裕があったりで、資格の勉強+ケータイ無しの直感のみでせどりする日々。あくまで、息抜き・趣味・リハビリとしてのセドリなので、売上はショボいです。

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