残すべき?残さざるべき?


謎多き奇習「おこもり」なぜ/青森・佐井、神社にこもり食べまくり?

青森県佐井村牛滝地区で江戸時代から百数十年以上続くとされる奇習「おこもり」。今年も12月15日夜、地区の神社・神明宮に男性らが集い、「めしっ、めしー!」「しる、しる、しるっ!」と威勢のいい声を響かせ、ご飯やすまし汁を満腹になるまで食べ続けた。大漁や無病息災を祈願する行事とされるが、なぜご飯を食べまくるのか? 大量のご飯はだれが作っているのか? 「おこもり」というからには神社にこもるのか? 人口100人ほどの集落で今も守り続ける奇習の謎に迫った。

長老や子どもらが食べる「一番膳」、若者による「二番膳」と続き、最後となる「三番膳」が終わったのは午後11時ごろ。その後も神明宮に残り、酒を酌み交わす男性たち。日付が変わるころには1人、2人と帰路に就くが、持ち回りで務める当番の男性2人は、朝まで神明宮にこもらなければいけないという。今回は当番の2人を含む6人ほどが漁模様や昔話で盛り上がり、16日未明までにぎやかに過ごした。


”奇習”呼ばわりされると彼らもムッとするかもしれないだろうけど
過疎化、限界集落、少子化などが問題とされ、
インターネットが発達した現代においても
地方、地方、そのまた奥地に行けば行くほど
その土地ならではの習俗がいまだに残っている。

肝心かなめの若い世代や子供がいなくなってしまえば
担い手も、続ける意味合いもなくなってしまうようなものばかりで
すでに集落ごと消滅してしまったものもたくさんあるだろうけど
そこに子供たちがいる限りは可能な限り続けたいものなんだろう。

そこまで日本の伝統的な村社会に暮らす身ではなくとも
根無し草的な都市大衆も似たような問題に悩むことはないだろうか?

僕は一つありますね。
ご飯に関するマナーだ。

これは日本のどの程度の人たちにまで普及している(いた)習慣、マナーなのかわからないけど
ご飯を食べ終える際には茶碗に米を一粒も残さないということ。

うちのオカンは石川の米農家の出だからこういうことにはかなりうるさくて、
「米粒を残すと目がつぶれる」みたいなことを言われて育った。

このマナーの起源は農家にとってはそれだけ米(白米)は貴重なものだから
”米一粒、黄金一粒”のノリで米を粗末にするなということだろう。

現代は飽食の時代などと言われるぐらい世界中から色んな食材を輸入出来る国になり、
米粒残さないなんて貧乏くせーなんて意見もあるだろうけど
ほんの200年前までは凶作の年には村が全滅するほど餓死者の続出する飢饉も起きていたのだから
地方の農村部の人々にその意識が受け継がれてきたことは理解出来るものだ。

MOTTAINAI-モッタイナイ-精神だからこのマナーは続けて行くだろう。


ところが厄介なことに、ご飯に関するマナーはもう一つある。

おかわりの際には茶碗にご飯を軽く一口残す、というものだ。

これも小さい頃から母親にうるさく言われて
おかわりをする際には最低でも米一粒は残すようにしていた。
米一粒でも残さずに茶碗を差し出すと「(おかわりの)シルシがない」と怒られるのだ。

先ほど触れたご飯を食べ終える際には米粒を残さないのと真逆のマナーなんだが
こちらの意味合いや必要性がもうひとつ理解出来ないのだ。

米粒だらけの茶碗を差し出すのは他所では抵抗がないかと。

まして相手がそのマナーを理解していれば何ら支障はないのだが
農家とは無縁な人々が増えている現代にあって(仮に農家でもどれだけ共有されているのか不明)
この習慣を理解し、付き合っていただくことを強要するのも難しい気がしてならない。
マナーを守ったほうがかえって品がないように受け取られるのではないか?

ネット上にも和食のマナーとしておかわりの際は一口残すと紹介されているけど
いっそ、常に茶碗には米粒を一粒も残さないで統一したらどうなんだと思うのだが・・・。

残すべきか、残さざるべきか。
悩ましい問題である。

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Author:E
数年勤めた会社を辞めて、某資格受験生活に入るも挫折したまま三十路をいくつか超えた無職。いい加減何とかしたいが、まだ何とかなると余裕があったりで、資格の勉強+ケータイ無しの直感のみでせどりする日々。あくまで、息抜き・趣味・リハビリとしてのセドリなので、売上はショボいです。

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