「信長の野望 武将風雲録」 其之四


弱小大名、畠山義綱の数奇な一生・・・。


シナリオ1「戦国の動乱」の開始が1555年。
宿敵である本願寺を破って能登・加賀・越中、三国の平定をするのに12年の歳月が流れた。

そして日の本一の大勢力を誇る信長との死闘が始り、
この信長との抗争に目途がつくまでにさらに5年を要したのである。


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ここまでくれば織田家に対する勝利は約束されたも同然。

大量の鉄砲を保有し、天下人に最も近い存在だった信長が
物量で明らかに劣勢な能登の素寒貧大名・畠山義綱に一敗地に塗れたのは何故か?

答えはただ一つ。

信長は人を大事にしないからだ。

これは史実でも似たようなところがあるが
ゲームでも信長は戦に勝って捕らえた武将をよく斬ってしまう。

この「武将風雲録」、とりわけ序盤は無能でもとにかく頭数が重要なのだ。


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一方、われらが主君・畠山義綱様は人を斬らない。

「斬るがよい」と言われても、まず斬らない。

とにかく召し抱える。
さらに「斬れ」と言われれば、躊躇なく逃がしてやる。

孟獲を7度捕らえて7度放してやった古(いにしえ)の諸葛孔明に忠実なのだ。

お人好しだと言われるかもしれない。

そんなだから重臣らの腹の底を見抜けず、
能登を追放される憂き目にあったのかもしれない。

斬らずに召し抱えた宇喜多忠家に茶器を持って他家に奔られた時には
さすがに「あいつ斬っとけばよかった・・・」と少し後悔もした。

しかし、それでも義綱様は人を斬らない!
士がゲーム内から永遠に失われてしまうのをお嫌いになるのだ・・・。

畠山家は人を大事にする企業なのです。


斬って斬って斬りまくった信長は
最終的に人手不足に陥いってしまい、こうなっては大量の鉄砲も宝の持ち腐れだ。

これが信長の敗因である。


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1573年、信長を滅ぼして近畿圏はほぼ制圧し、
畠山義綱は堂々と上洛を果たすが
朝廷からの使者が・・・来ない?

燕尾服をレンタルして今か今かと待っていたのに
征夷大将軍就任の使者が来るのは25か国以上とるのが要件であり、
この時点ではまだおあずけなのだ。


征夷大将軍になる日を夢見て天下統一事業を着々と進める畠山義綱様にピンチが訪れる。
1573年4月、あの戦国一の兵法家・武田信玄がついに上洛の軍勢を動かし、
にわかに襲い掛かってきたのだ。

その兵数はなんと2万8000。
一方、畠山勢は占領したばかりの三河国で8千人程度しかいなかった。

・・・この兵数といい場所といい、
奇遇にも武田軍が徳川勢に襲い掛かった三方ヶ原の戦いそっくりじゃないか!?

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を、徳川 ・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。


兵力において圧倒的に劣っているにも関わらず、
無謀にも野戦を挑んで生涯最大の敗北を喫した徳川家康。

しかし我々は同じ轍は踏まない。籠城あるのみ。
しかもこちらには虎の子の鉄砲がある。

織田家から転職したばかりで新入りの権六こと柴田勝家が
本丸から鉄砲を撃ちまくる。


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哀れ信玄、銃弾の雨あられに晒され、周囲の者たちは次々に打ち倒されて
本丸へのドアに手をかけながらも敢え無く力尽きた。

柴田権六の奮戦で見事、武田上洛軍を退けたのでありました。


そして待ちに待った朝廷からの使者がやって来た。
今回は近衛前久(さきひさ)だった。


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能登の貧国から身を起こし、辛酸をなめ続けて20年に近くならんとするこの日、
ついに畠山義綱は征夷大将軍に就任した。

残す敵も大したものもなく、
天下を統一し幕府を開くのは時間の問題だろう。


・・・しかし、ここまで畠山義綱は一度も戦場に出たことがないという。

戦闘力41だもの(笑)

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Author:E
数年勤めた会社を辞めて、某資格受験生活に入るも挫折したまま三十路をいくつか超えた無職。いい加減何とかしたいが、まだ何とかなると余裕があったりで、資格の勉強+ケータイ無しの直感のみでせどりする日々。あくまで、息抜き・趣味・リハビリとしてのセドリなので、売上はショボいです。

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