チャゲ&飛鳥大特集


最近、チャゲアスの曲を聴くことが多いので
チャゲ&飛鳥大特集をお送りします。

別にチャゲアスが復活してほしいというわけでもなく、
ただ懐かしいだけのことです。

ひとり咲き(1979)

チャゲアスのデビュー曲、そこそこ有名でしょうね。
バリバリのフォーク調ですね。

1979年当時の僕はもちろんチャゲアスなんて知る由もない。
この頃の曲を知ったのは高校生になってから。

ここから『万里の河』がヒットするも
それ以降はいまいちヒットしなかった。

『流恋情歌』や『男と女』とか、いい曲ばかりなんですけどね。
フォークスタイルもそろそろ下火になりつつある時代だったせいか。

華やかに傷ついて(1983)

20数年ぶりに聴いた。
これはかなり好きな曲でした。

映像・音声ともに乱れまくってますけど、
あまりにも売れなかったせいかYouTube上でもかなり貴重ですね。
歌のお兄さん感がしっかり出ています。

MOON LIGHT BLUES(1984)

これも狙いの好き嫌いはあるかもしれないけど、
かなり印象に残る曲ですね。

1984年、そろそろ脱フォークを模索し出した頃なのか。

やはりカラオケ動画もあまり上がってませんけど、
こういうのも箸休めに歌ってみるのもよろしいんじゃないでしょうか。

モーニングムーン(1985)

1985年、ワーナーからポニーキャニオンへの移籍後がこうなるわけ。

フォーク調からロックへとガラッと変わりましたね。
ちょっとはっちゃけすぎでしょ。

しかしその甲斐あってか、「ザ・ベストテン」では『万里の河』以来、
5年ぶりのランクインを果たしたそうです。

指環が泣いた(1986)

もう~止まらんばい!って感じですね(笑)

これも好きな曲でしたけどね。

ポニーキャニオン移籍直後は
勢いにまかせたままの激しいロック調の曲が続いたが・・・。

LONDON POWER TOWN(1987)

その名もズバリ、ロンドンパワータウン(笑)

イギリスに行ったことで
もう一段階、その音楽性に変化・成長があらわれましたね。
ロック調にポップ感というかファニーさが加わって、
後の大ブレークの素地が出来上がった印象ですね。

モナリザの背中よりも(1990)

シングル化はされなかったけど、
この曲を聴きたいがためにアルバム『SEE YA』を買った。

ASKAがロンドンに生活拠点を移した後に制作されたアルバムで
『太陽と埃の中で』も収録されていた。

これから90年代、チャゲアスのミリオンヒット時代に突入してゆくわけだけど、
こうやって振り返ってみると
今日亡くなられた中曽根総理の時代で
日本が国際化してゆく世相にチャゲアスの成長は合致していたように思える。

そういえば表記も国際化に合わせてCHAGE&ASKAに変わったんだけど
僕の中ではやはりチャゲ&飛鳥のままですね。

第4回 論語を読む


今回は孔子、ええセンスしとんな~編です。


子の曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。


何かについて知っているというだけの人は
それを好む人にはかなわない。

好きこそ物の上手なれ。

しかし、さらにその上がいて、それは楽しむ者だと。
楽しいと感じながらやることが大事。


子、怪力乱神を語らず。

怪=オカルト
力=力わざ
乱=不倫
神=神秘

儒教って宗教っぽく感じるけど、
孔子の態度はきわめて道学者的で
理想を語りながらも現実的なものだったという。


子貢問う、師と商とはいずれかまされる。
子の曰わく、師や過ぎたり、商や及ばず。
曰わく、然らば即ち師はまされるか。
子の曰わく、過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。


弟子の師(子張)と商(子夏)とでは
どちらが優れているか?と尋ねられて。

”過ぎたるは猶お及ばざるがごとし”はここからなんですね。
やり過ぎるヤツ(子張)は足りないヤツ(子夏)と結果的にそう大差ないと言っている。

全ての場合においてそうだとは言わないけど、
往々にしてそういうこともある。


子の曰わく、疏食を食らい水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす。
楽しみまたその中にあり。
不義にして富み且つ貴きは、我れにおいて浮雲の如し。

わかるなあ。
”素うどん”なんか食べたことありますか?

僕もサラリーマンをやっていた頃までは
普通のお店で出されるうどんを食べていたせいで
無職になった時に初めて素うどんを食べてみたらすごくマズかった。

最初はとても食えたものではなかったのが、
揚げ玉やトロロこんぶをのせただけのうどんが美味く感じるようになった。

そういえば昨日もラムーで100円のたこ焼きを買った。
いつもは店内に並んだものをカゴに入れてレジで買ってたんだけど
初めて焼いてるところで買いましたよ。
券売機で買うことを知らなかった。
また一つ賢くなった気がする。

こんな具合に貧しい中にも楽しみはあるものだ。

”浮雲”ときたか・・・。
そういう感覚なのかも。

この高度に入り組んだ社会において
孔子ほど厳格ではないけど、
わりとそんなところもありますね。

孔子が自分の代弁者のように思えてきた。


第3回 論語を読む


子の曰わく、詩三百、一言以てこれを蔽う、曰わく思い邪なし。

孔子の私塾で用いられたテキスト『詩経」300篇を一言であらわすなら、
邪心のない真心から詠まれたものだと。

孔子さん、カッコよすぎ(笑)
「論語」の中にはカッコよすぎる孔子の一言が時々あらわれる。


例えば有名な次のフレーズなんかも。

子の曰わく、其の鬼に非ずしてこれを祭るは、諂い(へつらい)なり。
義を見て為ざるは、勇なきなり。


”義を見て為ざるは勇なきなり”

ネットで検索してもたくさん使われているように、
みんなカッコいい~、シビれる~って強い印象を受ける一言だろう。
出典は「論語」だったんですね。

僕なんかにはちょっと耳が痛くもある、
この随分と勇ましい言葉なんだけど
ここで語れられている「義務」とは
”その鬼”=我が家の精霊 をまつりなさいってこと。
つまり先祖供養の話。

こう聞くと何だかガッカリする方も多いと思うけど、
まあ他に応用して「義を見せせざるは勇なきなり!」ってやっても誰も咎めませんけど。

カッコいいこと言おうとばかりしているなら
孔子は多くの人の心をつかまなかったかもしれない。
ちょっと冗談めかした発言も。

子、子貢に謂いて曰わく、汝(なんじ)と回といずれか勝れる。
答えて曰わく、賜や、何ぞ敢えて回を望まん。
回や一を聞きて以て十を知る。
賜や一を聞きて以て二を知る。
子の曰わく、如かざるなり。吾れと汝と如かざるなり。


孔子が弟子の子貢にきいてみた。
おまえと顔回(がんかい)ではどちらが優れているのか?と。

顔回というのは孔子の弟子の中で最も優れた人で、
「論語」の中でもその秀才っぷりは度々登場する。

顔回は一を聞いて十を知ることができますが、
賜(子貢はあざな)は一を聞いて二しかわからないので
到底、彼には及びませんと答えた。

孔子は私もおまえと同じ程度だから顔回には及ばないね、と。

そしてもうひとつ、孔子と子貢の会話。

子貢曰わく、我れ人のこれを我れに加えんことを欲せざるは、
吾れまたこれを人に加うること無からんと欲す。
子の曰わく、賜や、なんじの及ぶ所に非らざるなり。


子貢「他人が私に対して行ってほしくないことは私も他人に対して行わないようにしたいです」
孔子「おまえには無理」


仲弓という弟子に対して孔子が教え諭した、
あの有名な「己の欲せざるところ・・・」と対比すると
ちょっと面白さが際立ってくるのではないでしょうか。

こんなクスッとくる話も「論語」にはたまにあるんです。


第2回 論語を読む

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論語  金谷 治訳注  岩波文庫


「論語」を読むと全てがいいとは思わないけど
なかなか穿ってるなと感心させられることがある。


子の曰わく、学びて時にこれを習う、亦た喜ばしからずや。
朋あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。
人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。


「論語」の冒頭に登場する有名な一節。
国語の教科書にも掲載されていたと思うけど、
注目してしまうのは3つめの「人知らずして・・・」の部分。

他人が自分のことを分かってくれないからといって不満を抱くなと。

基本的にはそうだけど時と場合によっては限度もあって
「いや、孔先生そうは言ってもですね」なんてちょっと噛み付きたくなる気もする。

自分のことを一つを理解しようともせずに一方的に振り回そうだとか
さらには人を操縦しようなんてことされたら、
さすがにイラッとしてしまいますね。

初っ端から孔子様に口答えしてしまったけど、
この点に関して、孔子は次のようにも述べている。

子の曰わく、人の己れを知らざることを患えず、
人を知らざることを患う。


他人が自分を理解しないことを気にするのではなく、
自分が他人を理解していないことを気にしなさい、と。

いやしかしですね、孔先生。
現代社会にはストーカーやらヤバイ奴も多くてですね。

そうそう誰に対しても興味あるような素振り見せていたら、
犯罪に巻き込まれてしまうこともあるんです。

そしてその「知る」ということに関して。

子曰わく、由よ、汝にこれを知ることを教えんか。
これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。 
是れ知るなり。


知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする。
これが知るということ。

偶然にもギリシャのソクラテスと似たようことを言っていますね。

時代はほぼ同時期ながら(孔子のほうが100年早い)、
ギリシャと中国という地理的な隔たりがあるのに。


『論語』を読む

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論語  金谷 治訳注  岩波文庫


ついに『論語』を読み始めた。
以前もちょこっとだけ読んでいたんだけど。

『論語』が成立したのは
孔子が亡くなってから200年近く経過した後、
紀元前200年頃、漢の時代のことらしい。

2200年に渡って読み継がれるだけあって、
これまでに数々の注釈書が生まれてきたけど、
中でも”古注”として知られるのが
漢・魏時代の注釈をまとめた『論語集解』で
著者は何晏(かあん)という人物らしい。

漢・魏時代・・・
何(か)という姓・・・

ピンと来られた方はなかなかの三国志マニアでしょう。

漢末の皇后の兄であり、
政治を壟断していた宦官たちの抹殺を図るも
返り討ちにあって殺された大将軍・何進(かしん)。

何晏はあの何進の孫にあたるという。
てっきり一族皆殺しにされたのかと思っていたら、
そうでもなかった。

何晏の母が曹操の妾になったことで
その連れ子として曹操によって養育されたという。

曹操も『孫子』の注釈を書いたことで知られるほど
戦術家としてだけでなく文人としても有名だし、
息子の曹丕や曹植らも教養人として文壇で知られたように
何晏も曹一族の文化的な雰囲気の中で育ったんですね。

後に何晏は政治家としても頭角を現し、
曹爽らと結託して一時は政敵である司馬懿を追い詰めるも
司馬懿のクーデターに遭って処刑された。

『正史・三国志』の魏書にも書かれている、
あの大事件に絡んで最期を迎えたんですね。

そんな何晏だが

相当なナルシストであったとされる。顔には常に白粉を粉飾し(本当に真っ白な肌だったとも)、手鏡を携帯し、自分の顔を見る度にそれに「うっとり」としていたという。歩く際にも、己の影の形を気にしつつ歩んだと伝えられている。また、夏侯玄や司馬師と親しくし、優れた評価を与える一方で、自分自身のことは神に等しい存在だと準えていたという(『魏氏春秋』)


曹家の御曹司らと変わらないように育てられた才人とくれば、
こんな性格になるのも仕方ないことかも。

いま、古代中国が熱い

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中国史(上)  宮崎 市定   (岩波文庫)


古代・中国に関心が湧いて読み始めた。

歴史というより歴史「学」的な話になるので
春秋戦国時代の記載なんかは極めて薄かった。

そのわりに漢時代の王莽による帝位簒奪なんかはきっちり扱っていたり、
知りたいことはあまり触れてない。

古代を中心とした通史的なところを
手軽かつやや深めに知りたければ何を読めばいいのやら・・・。


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小説 十八史略(一)  陳 舜臣   (講談社文庫)

高校生の頃に同級生の子が読んでいて
なかなかシブいもの読んでるなあと感心してしまい、
僕も読もうかなと思ったんだけど
当時は司馬遼太郎派だったもので
なぜか陳舜臣に抵抗感があって読まずじまいに・・・。

大学生になって『秘本三国志』を読んでみたけど面白いと思えず、
少し前に読んだ『チンギスハーンの一族』も晩年の作のせいか、
あまりテンポが良いと思えず・・・。

どうも陳舜臣とは縁がないようだ。


あの頃、読んでおけばよかったと後悔する1冊。
6分冊ですけど。

三国志を読む


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正史 三国志〈1〉魏書 1   ちくま学芸文庫


一般に知られている物語としての三国志は
明の時代に羅貫中(らかんちゅう)が書いた『三国志演義』を基にしている。

明の時代、つまり1300年頃に成立した歴史小説。

三国志演義の基になった『三国志』は
280年頃に陳寿(ちんじゅ)という人が書いた(編纂した)歴史書だ。

そしてその100年後ぐらいに裴松之(はいしょうし)が注釈をつけたものが
現在、読まれている『三国志』。

陳寿が三国志を著したのは時の晋朝の正統性を証明するためとされていて、
漢→魏→晋と”禅譲”(ぜんじょう)を通じて正しく成立したと主張している。

そのため、曹操以下の魏の皇帝たちだけでなく、

司馬懿→司馬宣王
司馬師→司馬景王
司馬昭→司馬文王

という具合に魏から政権を奪った司馬一族も最初から尊称で呼ばれている。
(肝心な司馬炎が諱呼びなのは三国志を書かせた本人だからか?)

吉川英治の「三国志」のように”死せる孔明、生ける仲達を走らす!”なんて終わり方で
司馬懿ってちょっとマヌケな印象を持たれた方も少なくないと思うけど
史実はかなり違うんですね。

演義モノでは大きく取り扱われなかった武将、文官がクローズアップされていたり、
なかなか面白い。

分量の多い注釈は陳寿が書いたものではないので
最初は読み飛ばしてもいいと思う。
(陳寿が書いた本文にも退屈な箇所もあるが)

久しぶりに読み返しているけど、
残念ながら僕は正史 三国志の1巻しか持ってない。

古本屋で安くキレイめの物を入手しようと何年か頑張ってみたけど
なかなか拾えない・・・。

名前をめぐるややこしい慣習


孔子の本名についてさらにカルトな知識として
字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)といったらしい。

姓は
名は
字は仲尼

名と字が別にあるのが不思議だが
昔の中国では本当の名を諱(いみな)と言って
生きている人を実名で呼ぶことは不吉だとして避ける慣習があった。

それで諱の代わりに字で呼びあうことになる。

孔子で考えると難しいけど
日本人もよく知り過ぎている三国志で考えるとわかりやすい。

例えばあの諸葛先生の場合。

姓は諸葛
名は亮
字は孔明

正式な氏名は諸葛亮だが、
諱を避けて諸葛孔明と呼ばれた。

諱で呼ぶ例外は目上の者(主君であるとか)や
文書などの記録による場合。

いっそのこと”諸葛亮孔明”と全部並べて呼びたくなるけど
諱と字では矛盾関係のようなものだから正しくはないということになる。
(※文書の記録上はこのように記すこともあるらしいけど)

三国志の場合は物語の影響で諸葛孔明を筆頭に

劉備→劉玄徳(りゅう・げんとく)
関羽→関雲長(かん・うんちょう)
司馬懿→司馬仲達(しば・ちゅうたつ)

場合によっては
字呼びのほうが知れ渡っているぐらい。

僕ら世代になると光栄やナムコのゲームのおかげで
正式な名前のほうでよく知ってるけど
古い世代の人ほど字呼びしか知らなくて
「チョウウンて誰?趙子龍ならわかる」みたいなことがある。
(最近の小説やゲームではリアルタイム感を出すためにまた字呼びが増えてるのかも)

諱、実名を避ける文化は日本にも波及して
わかりやすい例が坂本龍馬

氏は坂本
名は直柔(なおなり)
字は龍馬

そして変名は才谷梅太郎と実にややこしい。

日本では明治時代に入って字・諱の併用は廃止され一本化され楽にはなったけど、
昔の人たちが諱を字を使い分けた感覚はさっぱりわからなくなった。

諸子百家とは

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諸子百家  湯浅邦弘  中公新書


東洋の哲学や思想、とりわけ儒教のことだが
日本では戦前の右翼・軍国主義思想につながったり、
現在においても未分化な性質からカルト宗教に援用されるなど
西洋の思想・哲学に比べて何かと怪しい印象で
あまり関心を持ったことがなかったんだけど
ついに読んでしまった。

諸子百家が活躍した中国の春秋戦国時代とは
殷・周と秦・漢・三国時代の間、
紀元前8世紀から紀元前3世紀頃。

そんな古い時代に色んな思想家・学者が
(どこか偏りもあるけど)それぞれに個性的な思想をひっさげて
戦乱に明け暮れる中国全土の王侯を遊説してまわったというのだから、
スケールの大きさとどこか優雅さを感じさせる。

法家の韓非子と兵家の孫子も興味があるけど
諸子百家時代の特殊性をもっとも表現しているように感じるのは墨家

「非攻」と「兼愛」を説き、
大国による侵略戦争を批判したというから反戦平和につながるのかと思ったら、
実はこれが戦闘集団でもあるというから驚きだ。

ある強国が小国に攻め込んだ際に、
どこからともなく忽然と現れ、
小国の側に立って籠城戦を手助けする防衛戦のプロ集団でもあった。


ところでこの諸子百家の「子」は”先生”の意味ですが、
孔子の本名は何でしょう?


答えは孔丘(こうきゅう)

意外とパッとしない名前ですね。
これは孔子と呼び習わすのもわかる気がする。

『津軽』と言えば?


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津軽  太宰治 / 角川文庫

昔々、通っていた予備校の国語のお爺ちゃん講師が若い頃は文学青年で、
太宰治の自殺について話してたのをなんとなく覚えている。
発表する作品がどんどん”それ”っぽくなってきて、
そろそろ自殺するんじゃないか?なんて思われ出した矢先の一報だったらしい。

芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成と相次いだ作家の自殺。

純文学=自殺といった暗いイメージが出来上がってしまったのも、
純文学作品を避けたい理由の一つかもしれない。

それに比べれば村上春樹は健全だろう。
三島のようなサドマゾもないし、太宰のようなニヒリズムとも無縁。

『ノルウェイの森』は作中に自殺者が多かったものの、
村上春樹本人は自殺からはほど遠い人物に思われた。
(これからまだ先わからないけど)


で、太宰治についてですけど、
『人間失格』『斜陽』『女生徒』『桜桃』ぐらいは読んだことがある。
自意識を程よい笑いに変えるユーモアがあって、
根底のニヒリズムや自殺の件が頭になければもっと読めたかも。

そして20数年ぶりに手にした太宰作品がこの『津軽』。
太宰さんの故郷が青森県・津軽。

子供の頃に旅行で連れて行ってもらった記憶以外、
青森に関しては知識も興味もほとんどなく、
西半分が津軽で東半分が南部だと初めて気づかされたぐらい。

戦国時代から江戸時代にかけての津軽氏と南部氏の因縁については
ほんのちょこっとだけ聞いたことがある程度だった。

太宰治は文学作家だけあって無粋な歴史的因縁には深入りしないが、
青森県形成にも影を落とし続けたのかも・・・。

体調がよくないのと
青森に・・・津軽にいまひとつ興味が持てないせいで読みは浅いけど、
ラストの”乳母”のたけに再会するくだりは読んでいて何やら違和感を覚えた。

わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きい頬ぺたの赤いひとであつた。右か、左の眼蓋の上に、小さい赤いほくろがあつた。私はそれだけしか覚えてゐないのである。逢へば、わかる。その自信はあつたが、この群集の中から捜し出す事は、むづかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも、手の下しやうが無いのである。私はただ、運動場のまはりを、うろうろ歩くばかりである。
「越野たけといふひと、どこにゐるか、ご存じぢやありませんか。」私は勇気を出して、ひとりの青年にたづねた。「五十くらゐのひとで、金物屋の越野ですが。」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。
「金物屋の越野。」青年は考へて、「あ、向うのあのへんの小屋にゐたやうな気がするな。」
「さうですか。あのへんですか?」
「さあ、はつきりは、わからない。何だか、見かけたやうな気がするんだが、まあ、捜してごらん。」
 その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで云々と、青年にきざつたらしく打明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言ひ、その漠然と指差された方角へ行つてまごまごしてみたが、そんな事でわかる筈は無かつた。



乳母のたけを必死に探し回る太宰の姿には道化を感じさせるものがある。


太宰治ってこんなキャラクターだったっけ?


この数年後には結局、自殺してしまうことを
後の世代は知ってしまっているのだから。

何人かの研究者はたけとの会話などなかった、
このシーンはフィクションと考えているようだ。

僕もこラストに作家的サービス精神が働いて
これは話を盛ったなと感じた。

それでこそ太宰治なのかとも・・・。

返品すべきか否か


かなり吟味してAmazonで服を買ったら
やっぱり微妙に小さかった。
質感は思っていた以上によかっただけに残念。

これを返品するかどうかが悩みどころだ。

体調が良くなくて
返品を出しに郵便局まで行くのもシンドイ・・・。

かと言って無理に着ていると
安物だからしまいにビリッと破れてしまいそうだ。

頻繁に返品ばかりする困った客でもないんですよ。
夏も電化製品で一つ返品したかったものがあったけど
結局しなかったし。

返品しよう。
早く返品してワンサイズ大きいのを買いなおさないと
本格的に寒くなりそうだ。



ハロウィンを迎えて
これからサンクスギビング、クリスマスと
アメリカはパーティ・ピープルの本領発揮の冬を迎える。

アメリカ人のハロウィンに対する熱意は
まだまだ日本人には理解し難いものがあるけど
彼らの根っからのポジティブさはこういう所から生まれるんだろうな。



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